もっともらしい伝説や神話は科学的に検証されることを待っています。
フェイクニュースがネット上を駆け巡り何が真実であるかについて混乱する時代であればなおさらのことです。
1998年に生まれたイヌイットに関する一つの神話は、ある科学者の長年の関心の的でした。
これは20数年ぶりに神話を検証しようと立ち上がった一人の勇敢な(無謀な)科学者の話です。
(注!この記事を食事の時間に読むのは避けた方がよいかもしれません)
もっともらしいイヌイットの老人の物語
1998年、ブリティッシュコロンビア大学の人類学者であり人気作家でもあるウェイド・デイビスは自身の著書で、あるイヌイットの神話について書きました。
そこには1940~50年代にイヌイットの入植地に戻るの拒否した一人の老人が登場します。
家族は老人を思いとどまらせるために持っている道具の全てを奪いましたが、老人の決意は固く、たった一人で雪と強風が支配する雪原に向かいます。
何の道具も持たない老人は雪原で生きていくためにあるアイデアを実行します。
それは食料となる犬を殺すために自分の糞を凍らせたナイフを作ることでした。
物語は、老人が唾液のスプレーで鋭くした糞便のナイフで冬の嵐を生き延び、動物の胸郭で作ったそりに乗って暗闇に消えたところで終わります。
このもっともらしいイヌイットの神話は現在、史上最も人気のある民族史の1つに数えられるまでになっています。
たしかにイヌイットの住む地域は地球で最も寒い場所の一つであるため、糞便だろうと何だろうとすぐに凍ってしまうだろうことは容易に想像がつきます。
しかし真実は検証によってのみ決定されます。
果たして犬を殺せるほど鋭利なナイフを人間のうんちから作ることができるのか……この物語が語られてから20年、誰も挑まなかった検証を行うために一人の科学者が立ち上がりました。
凍った人間のう〇ちは肉を切り裂くナイフになるか?
学術誌Journal of Archaeological Scienceのオンライン版に掲載された研究の主任著者であるメティン・エレン氏は、自身が高校生のときにラジオでデイビスのイヌイットの話を聞いたことが人類学者になるきっかけだったと語ります。
オハイオ州のケント州立大学の助教授であり実験考古学研究所のディレクターも務めるエレン氏は、20数年前に聞いた話が今でもまるで真実であるかのように扱われていることを心配していました。
これは人目を惹く話であり間違いなく面白いものですが、昨今のフェイクニュースが氾濫する状況は、同氏に神話が事実であるかについて検証する義務感を芽生えさせました。
都市伝説や、実験データが不十分でありながらも学術および公共の分野に浸透しているものについて検証するのは、本当に重要なことだと思います。
エレン氏はイヌイットの神話を検証するために自らを実験対象にすることにしました。
まず“ナイフの材料”を作るために、彼はイヌイットの高タンパクの食事のレシピを用意し8日間かけてそれを摂取しました。
食事にはたくさんの牛肉、七面鳥、サーモンの他に、アップルソースとマカロニチーズでできたリゾットがあります。
エレン氏は、食事は思っていたよりも大変だったと語り、3日目以降には頭痛に悩まされたと明かしました。
こうしてエレン氏のお腹にはナイフの材料が蓄えられ検証の準備は整いました。
エレン氏は4日目からナイフの材料を収集し始め、それを北極での環境に合わせマイナス50度で凍結させました。
出来上がったうんちのナイフにエレン氏は驚きます。
冷凍した人間のうんちがこれほど固くなるのに驚きました。あぁ、これは実際に機能するかもしれません!
……科学の前にきれいも汚いもありません。
後は実際にナイフが本当に鋭い切れ味を持つか検証するだけです。
出来上がった“うんちナイフ” Image Credit:Michelle R. Bebber
果たしてうんちナイフの切れ味はというと……残念ながら何も切ることはできませんでした。
うんちでてきたナイフはまるでクレヨンのように溶け、動物の肉に茶色の縞模様を残しただけでした。
しかしこれはエレン氏の作ったナイフの切れ味がたまたま悪かった可能性もあります。
そこで共同研究者であるミシェル・ベバー氏も“材料”を提供し、新たなナイフで検証することにしました。
……しかし結果は同じであり、二つのうんちナイフはいずれも何かを切ることはできませんでした。
この結果についてエレン氏は、努力は無駄ではなかったと語ります。
データは重要であり、実際、この研究は読者を引き付けることを意図しています。科学とは現実を記述し説明することなのです。
同氏はこの研究結果が、フェイクニュースなどの検証されていない話題に対し人々が正しい判断をするきっかけにつながると考えています。
20年近くも検証されなかった神話は偉大な研究者たちの手により、ようやくその真実を白日の下にさらすことになりました。
誰もやろうとしなかった実験を自らの身体を使って検証する科学者たちの熱意と奮闘に、ただただ頭が下がる思いです。
(多分誰もうんちでナイフを作ろうとは本気で考えなかったのではないか……そんな疑念を抱くのは野暮というものです)
References:LiveScience