現在のメキシコやグアテマラ地域には、かつてマヤという文明が栄えていました。
マヤには時代によっていくつかの分類がありますが、なかでも古典期とされる西暦250年から900年頃までの間に栄えた文明は、各地に巨大な都市を持ちそれぞれが独立した国家を築いていました。
当時この地域全体には(ヨーロッパの全人口に匹敵するほどの数である)2500万もの人が住んでいました。
しかし古典期マヤの都市はその後、住民とともに忽然と姿を消してしまいます。
文明が消えた理由にはいくつもの説があります。
農民が反乱したというもの、気候変動によるもの、疫病によるもの、外敵の侵入によるもの、もしくはこれらが複合的に重なり合った結果だというもの……いずれにしてもその確たる原因は今でもわかっていません。
こうしたミステリアスな側面は、人々をマヤに引き付ける大きな魅力となっています。
考古学者たちは現在もジャングルに埋もれたマヤの遺跡を発掘し、その衰退の謎に迫ろうとしています。
そうした中最近発表された研究結果は、古典期マヤの衰退についての新たな見方を提供することになりました。
彼らは頻繁に戦争を繰り返すことで疲弊していた可能性があります。
そしてその戦争の頻度と様式は、従来の考え方であった「儀式としての戦争」とは大きくかけ離れたものでした。
石碑に刻まれた年代と周囲の地質が明らかにする戦争の証拠
古典期マヤの代表的な遺跡「カラクムル」 Photo by Arian Zwegers | Flickr
Nature Human Evolution誌に掲載された研究は、現在の北グアテマラにあったマヤの都市ナランジョ(Naranjo)で見つかった象形文字の碑文について掘り下げています。
碑文に描かれた内容は、当時のナランジョが、隣国であるバーラム・ジョル(Bahlam Jol )に対して大規模な軍事キャンペーンを行っていたことを示していました。
研究に参加したアメリカ地質調査所のデビッド・ウォール氏は、ナランジョ周辺の地質が歴史の中でどう変質してきたのかを広範囲に調査しています。
土地の堆積物を調べることで、年代によって何が起きたのかを推定することができます。
これまでマヤ文明は、高度な知識と広範な貿易ネットワークを持つ洗練された民族によって繁栄してきたのだと信じられてきました。
戦争についても、神に捧げるためのいけにえを得るために儀式化されていたとされ、国と国との間で暗黙ともいえる協定があったのだとする説が大勢を占めていました。
しかしウォール氏たちの研究チームがナランジョの近くにある湖の堆積物を調べたところ、意外ともいえる事実が浮き彫りになります。
堆積物の層はこの地域のおよそ1700年分に相当する情報をもたらします。
ウォール氏が注目したのは、この地域で7世紀の終わり頃に大きな火災があったことを示す堆積物の層でした。
先のナランジョでの発掘調査においては、戦争の記録を刻んだいくつもの石碑が発見されています。
そこにはバーラム・ジョルが、697年に2度目の攻撃を受けて焼かれた、と記されている石碑も含まれていました。
そしてこの697年という年は、大きな火災があったことを示した堆積物の放射性炭素年代測定から判明した年代と一致していました。
この事実は、石碑が“実際に起きた戦争について記したもの”であることを示す有力な証拠です。
さらに堆積物からは、大きな火災があった後に人間の活動を示す兆候――農業の痕跡や残留物――が著しく減っていたことも確認できました。
マヤの国家が頻繁に行った戦争は文明衰退の一因になった
古典期マヤの代表的な遺跡「パレンケ」 Photo by Jiuguang Wang | Flickr
バーラム・ジョルで見つかった石碑の記述だけでは、当時の国家が紳士的な戦争を経て捕虜の交換をしたのだと勘違いしてしまうかもしれませんが、周囲の堆積物の年代測定結果を重ね合わせることで、戦争が実際に起き、それが大規模で多くの犠牲を伴うものであったことが明らかになります。
また石碑に刻まれていた“puluuy”と呼ばれるシンボルマークも、マヤの国家が暴力的な戦争を繰り返していた事実を補強します。
この“puluuy”は、都市が燃焼したことを示す記号ですが、これは他の多くのマヤの遺跡で見られるマークでもあります。
それぞれの国家が戦争をしその勝利を記念して石碑に“puluuy”と刻んだのだとしたら、当時のマヤは私たちが思っているほど平和な文明ではなかった可能性があります。
ウォール氏は、「ナランジョのバーラム・ジョルへの攻撃はその場所を破壊し地元住民に深刻な影響を与えたことでしょう」と語り、戦争による住民への被害が大規模であったことが文明衰退の一因になったと指摘しました。
今回の研究結果は、マヤ文明の崩壊がどのようにして起きたのかについての新しい見方を提供するものです。
従来の説では、古典期の終わりにかけて起きた自然災害や環境ストレスが文明の崩壊を後押しし、それによって各国家が、いわば仕方なく戦争をすることで疲弊し滅びていったというのが共通認識でした。
しかしバーラム・ジョルへの襲撃は、古典期が衰退する100年以上も前の697年に起きています。
研究の共著者であるアメリカテュレーン大学のフランシスコ・エストラーダ・ベリ氏は、従来の考え方であった、“文明末期に起きた戦争がマヤ社会の衰退を招いた”という理論はもはや通用しない、と述べています。
古代マヤ文明は魅力的な構造物や芸術、そして当時としては考えられないほどの天文学的知識を持った文明でした。
ヨーロッパの人口を越える規模でありながらも突然姿を消してしまったというその歴史は、とてもミステリアスでもあります。
しかし今回の研究は、彼らが――他の国や地域の国家と同じように――生きていくためにしのぎを削り、必要ならばいつでも戦争を繰り広げていたことを明らかにしました。
いまだはっきりとした文明衰退の原因はわかっていませんが、少なくともマヤが、考えられている以上に複雑な文明であったことだけは間違いありません。
References:LiveScience,NewsWeek