西暦79年、イタリアにあるヴェスヴィオ火山が噴火しふもとにあった街ポンペイが灰に包まれました。
突然の出来事に逃げ遅れた人々は灰の中で時が止まったまま何百年も埋もれたままでした。
ポンペイでは今でも慎重な発掘調査が続けられていて、発見される遺物からは当時の生々しい様子が伝わってきます。
記録によると火山による被害者の数はポンペイとその近くにある街ヘルクラネウムで合わせて2000人近くに及んでいます。
しかしこの悲劇的な天災により全ての人が亡くなったわけではありません。
当時この2つの街には15000人から20000人の人が住んでいました。
では災害を生き延びた残りの人たちはどこに消えてしまったのでしょうか。
災害を生き延びた人は南へ移動し定住していた
今春に発行されるジャーナルAnalecta Romana誌に掲載予定の新しい調査によると、火山の被害を免れた人々はイタリア南部の沿岸沿いに滞在しその多くがその後定住したことがわかりました。
ヴェスヴィオ火山の噴火後にポンペイやヘルクラネウムの人々がどこに避難したのかについて研究しているマイアミ大学のSteven Tuck教授は、難民の行き先を特定するのは困難な仕事であったと語りました。
これは残っている歴史的記録にむらがあり、また散在しているためで、調査を進めるためには新しい基準を考案する必要がありました。
Tuck教授は文書、碑文、遺物、そして古代のインフラストラクチャ―をその基準に設定し各地に散らばるそれらのデータを収集していきました。
難民がどこの街に移動したのかを知るためには、まず被害を受けた街であるポンペイとヘルクラネウムに住む人々の姓のデータベースが必要です。
また彼らが信仰していた神の名前やユニークな文化的しるしにも注意を向けました。
そしてそれらが西暦79年以降に別の場所で現れたかどうかを調べることにしました。
見つかった碑文などからは、難民が別の街に流入したことを示すいくつもの形跡が認められました。
例えばある碑文には生存者の一人であるCornelius Fuscusという男のことが書かれています。
そこには彼が軍に属していてローマ人がアジアと呼んだ地域(現在のルーマニア)で死亡したとありました。
また彼がポンペイの出身でありその後ナポリに住んでいたことも記されていました。
また別の例ではポンペイ出身のSulpicius一家のことが文書に記録されています。
それによるとSulpicius一家は難を逃れた後クマエという場所に定住しています。
彼らはポンペイで金融に関するビジネスネットワークを持っていたとみられ、噴火の際に財務記録が入った大きな箱を持って逃げたが途中でそれを投げ捨てたという記述が見られました。
Tuck教授はこの他にも難民が様々な場所に定住した証拠を発見しています。
しかし当時ポンペイやヘルクラネウムに住んでいた人たちには外国人や奴隷なども多く、彼らのほとんどが姓を記録していないことから、実際にはもっと多くの人が別の場所に流出しているとTuck教授は考えています。
難民を救うため行われたローマ帝国の公共事業
2000年近く前のことですが、当時のローマ帝国はこの事態に対し救いの手を差し伸べた形跡があります。
Tuck教授はローマ皇帝ティトゥスが難民のいる街に対し資金を提供したことを発見しました。
教授はこの時期に発生したインフラストラクチャー事業は火山の被害に遭った難民を受け入れるためのものであった可能性があると指摘します。
援助資金は実際にはポンペイやヘルクラネウムで犠牲になった相続人のいない者の資産からきていました。
ティトゥスはこれらを使い公共インフラの整備を進め、それは難民のための新しい住居の建設にまで及びました。
各地で皇帝の援助を受けた事業が進められていたとみられ、ナポリでは難民収容に対する功績をたたえたティトゥスの碑文も見つかっています。
Tuck教授はポンペイとヘルクラネウムの街は消えてしまったが、当時の政府は明らかに難民のために住居や水路を整備していた、と語りました。
災害は人々を不安にし生活をままならなくします。
しかし今回の発見をみると、いつの時代であっても人々が助け合ってきたのがわかります。
困ったときはお互い様――時代が変わってもそんなちょっとしたやさしさだけは持ち続けていたいものですね。
References:LiveScience