暴君ネロの悪評の一部は歴史家による誇張のせいかもしれない

歴史
Bust of Nero at the Capitoline Museum, Rome,cjh1452000,Wikimedia

歴史は勝者が作るなどといいますが、時間と共にその評価がかわっていくことはよくあることです。

ましてや古い時代のものとなれば話に尾ひれがついているのは当たり前といってもいいでしょう。

 

歴史家たちは時の権力者について多くの批評を残しています。

なかでも悪名の高さで有名な人物といえばまず思い浮かぶのが、ローマ帝国の5代皇帝ネロかもしれません。

ネロと言えば暴君といわれるほど、その悪逆非道ぶりは長い間真実の歴史として言い伝えられてきました。

しかし評価がコロコロと変わっていくのが歴史というものです。

 

今回アメリカの公共放送サービスであるPBSが制作した番組では、ネロがこれまで言われてきたほど悪い皇帝ではなかったかもしれないことを検証しています。

 

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悪の皇帝ネロと3人の歴史家たち

 

ネロによって火刑にされかかっているキリスト教徒たち ヘンリク・シェミラツキ,Public Domain

 

歴史によればローマ皇帝ネロ(起源37-68)はライバルを次々と殺害し、ローマの大部分を破壊し、キリスト教徒を処刑し、自らの妻や母までをも死に至らしめた悪の皇帝です。

これらのいくつかは実際に起こったことですが、最近の歴史的記録の調査はそこに無実の部分があることを示唆しています。

 

PBSの番組では言い伝えられてきたことを検証して、それが実際に起きうることなのかを調査しています。

 

これまでネロの悪評について詳細に書き記している歴史家は3人います。

タキトゥス(Cornelius Tacitus)、スエトニウス(Gaius Suetonius Tranquillus)、カッシウス・ディオ(Lucius Cassius Dio Cocceianus)の3人です。

それぞれがローマ帝国の政治家、歴史家であり、過去の皇帝についての著作があります。

 

PBSの代表は「彼らは一様にしてネロを悪の皇帝と評しているが、それには幾分誇張が含まれているかもしれない」と述べています。

 

例えばタキトゥスは、ネロが自分の義理の弟であるブリタンニクスを毒の入った飲み物を使って毒殺した、と書いています。

それによるとネロは、晩餐の際に無色無臭の毒が入った水を瓶から注ぎ、それを飲んだブリタンニクスは数秒で死亡しました。

しかし番組での実験でこれを再現しようとしたところ無理があることが判明しました。

タキトゥスが書いたような数秒で死亡するほどの強い毒には、誰もが気づくほどの強いにおいがありました。

このことから、もしこれを飲ませようとしたならば、ブリタンニクスは必ず異変に気付いただろうと結論づけています。

 


 

ネロの別の悪評に、ローマの都市を焼け野原にしてそこに新たな宮殿を作った、というものがあります。

ネロは街の3分の2を焼き尽くす大火を眺めながらバイオリンを弾いたと言われています。

新たな宮殿を作りたかったネロが上院の許可なしにそれを実行するために、自ら指示して街に火を放ったのだと歴史家は書きました。

 

しかしこの言い伝えにも確とした証拠がないことがわかりました。

 

ジョージア州にあるエモリー大学の美術史准教授Eric Varner氏は、ローマのエリートたちがネロの宮殿建設プロジェクトに対して不快感を抱いていたことが後に話を大きくしたのだと述べています。

事実ネロが大火と関係があるという証拠はこれまで見つかっていないということです。

 

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市民からの意外な評判と芸術を愛したネロ

 

ローマ大火 ユベール・ロベール,Public Domain

 

ネロの悪評が真実なのかどうかは、後世の私たちの意見の前に、当時の人々の声を聞くことが重要かもしれません。

当時のエリートたちがネロの政治に批判的であったとしても、市民はそうではなかった可能性があります。

 

バージニア州のワシントン&リー大学の歴史家Rebecca Benefiel氏は、ポンペイで発見された遺構から、ネロが予想外に当時の人々に人気があったと語ります。

西暦79年にベスビオ山が噴火すると、ポンペイの街は大量の火山灰で埋まってしまいます。

この大惨劇のほんの10年前までは、ネロがローマ帝国の皇帝でした。

ネロが伝えられているような冷酷で無慈悲な悪評高い暴君だとすれば、ポンペイにはネロを糾弾するような遺物が見つかってもおかしくありません。

しかし後年の発掘調査からは、ポンペイの人々がネロを称賛している証拠が見つかっています。

ポンペイの街にはいたるところに、ネロを賛美する文章や絵が残っていました。

 

Benefiel氏は、市民が皇帝とその妻を歓迎し賞賛していると書かれた複数の碑文が見つかっていると述べます。

 

このうちの1つには、“皇帝と皇后陛下に万歳!あなた方の安寧が私たちの永遠の幸せです”と書かれていました。これらから皇帝と市民との間にあった好意的な関係を垣間見ることができます。

 

この碑文が市民の本当の胸の内を表現したものかはわかりません。

しかし少なくともエリート階級である歴史家たちは、ネロの良い部分について書き残すことはしませんでした。

ネロに対する感情は、市民や政治家そして歴史家などの、それぞれの身分の違いによって大きく変化していた可能性があります。

 


 

スエトニウスはネロが芸術に傾倒していたと書いています。

そこでは自分の演奏会のために5000人もの青年を集め、演奏中に拍手することを強要したと書かれています。

またどんな緊急の理由があろうとも演奏中に席を立つことは許されず、ある女性が演奏中に子供を産んだが周りは拍手をすることに精一杯なため、密かに抜け出したことなどが記されています。

他にもスエトニウスは、ネロが少年を虐待したり既婚女性を誘惑したりしたこと、さらには若い女性の処女を奪ったりしたことなどを書いていて、ネロが奔放で暴力的な性欲を持っていたという印象を後世の歴史家に残す役割を果たしました。

 

こうした歴史家たちによって広まったネロの悪評の一部は、番組や今後の研究によって覆される可能性があります。

Benefiel氏は、ネロが芸術に専念していたならば誰もが幸せだったかもしれないと語ります。

 

ネロは死に際に、自分のような芸術家がこの世から失われてしまうのは惜しいことだと言ったといいます。彼は自分のことを軍の指導者としてよりも芸術家として見ていました。

 

Benefiel氏は、ネロが芸術家の道を選べる立場にあったのならば、皇帝ではなく芸術の道を選んだのではないかと付け加えています。

 

 

 


 

ネロの悪評を書いた3人の歴史家たちはいずれもネロの死後に活動しています。

まるで見てきたかのような描写は書き手の力量の表れでもありますが、そこには当人の私情や政治的な見方も必ず反映されています。

しかし同時に、ポンペイから出土したネロを称える碑が、市民の真実の声を反映していない可能性も残されています。(ネロを批判する碑を街の通りに堂々と建てることはできません)

 

少なくとも、善悪どちらの評も残されているネロという人物は、真実はどうあれ、人間味に溢れた魅力的な人物であったことだけは確かです。

 

 

References,LiveScience,PBS